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日々の日記と徒然語りと更新履歴
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土曜日の早朝、祖母が亡くなりました。

倒れてからのべ19年、大きな手術をして、車椅子の生活になり、入退院を繰り返していた時期もありました。
容態が悪化してほぼ寝たきりの状態になり、私が結婚した少し後、食事はチューブで胃に直接通す生活になりました。
その頃は、意識の方も、しっかりしているときとあまりハッキリしないときとのムラが大きくなりました。
それでもまだデイサービスやショートステイに行ける体だったのですが、つい数週間前から容態が悪化して、医者からもいつ亡くなっても不思議はないので覚悟しておくようにと言われました。

それから私の自己満足でしかないのですが、その時がきて後悔しないように出来るだけのことはしたいと、時間のあるときは出来るだけ祖母の顔を見に行っていました。
その間も、何度も危険な状態になり、持ち直しを繰り返していたし、前に完全に寝たきりになるときも、覚悟しておくようにと言われて持ち直したりしていたので、正直、心のどこかでそれでもまだ持ち直すんじゃないかと思っている自分がいました。

食事が出来なくなってからの祖母は日に日にやせ細っていって、亡くなった時には元気だったときの半分に近い体重になっていました。
容態が悪化してからの数週間はいつも苦しそうに息をして、辛そうな顔をしていて、意識もなくなり目も見えなくなっていたようです。
みんな、こんなに苦しむくらいなら早く楽になって欲しいと言ってました。
私もそう思っていたのですが、心のどこかではそれでもまだ生きていて欲しいと願ってしまう自分もいて複雑な気持ちでした。

祖母の容態が悪化して、叔母が付ききりになり、母もその手伝いで常に祖母のところに行っていたのでちょっと実家の方では父と母がぎくしゃくしたり、いろいろとありました。
でも、祖母が倒れて長いので、自然と祖母の介護を中心にした生活になっていました。
まだ車椅子で移動出来たころは、月に何日か実家に泊まりにきていて、それを前提に実家を建てるときに援助して貰ったり、母が祖母の介護を手伝うのに月にいくらかのお礼を頂いていたりして、その辺も絡んで・・・まあ、人って言うのはいろいろと難しいものですから。

正直、そんな事情もあって、祖母が亡くなったら確実にこれまであった何がが変わるんだろうなと思っていて、それが怖かったというのも、祖母に生きていて欲しいと思った理由の一つだったのかもしれません。自分勝手な気持ちで申し訳ないのですが・・・。

祖母はずっと自宅で介護を受けていて、最後は強引な延命治療もなく、家のベッドで息を引き取りました。

祖母はずっと苦しんだけど、いろいろあったけど叔母がずっと頑張って介護してくれて、自宅で亡くなれて、それだけは幸せだったんじゃないかなと思います。

亡くなったと連絡を受けたのが午前5時半でしたが、ちょうど旦那のお弁当を作って落ち着いたところで、その日は旦那を送り出して、家の用事を済ませてから祖母のところに向かいました。

でも、覚悟は出来ていたせいか、その時は必要な物(香典袋や黒のストッキング)を買いにコンビニに寄ったりする気持ちの余裕があって、自分って薄情だな、涙とかでるのかなと思ってしまいましたが、いざ仏間に寝かされたすっかり小さくなった祖母の姿を見たら涙が止まらなかったです。

祖母にとって孫は私一人だけで小さい頃からずっと可愛がってもらっていたのですが、私は何も孝行できなくて申し訳なくて、せめてお通夜や葬式で出来ることはなんでもしようと、ここ数日はずっと必死でした。

喪主は叔父なのですが、祖母の生前から叔母に介護をほぼ任せきりな人で、お通夜から葬式にかけても肝心なことはすべて叔母任せ、かといって叔母や、手伝いにきていた私たちにろくに声も掛けてこないような人で、元々そういう人だと諦めて誰も相手にしていませんでしたが、忙殺という言葉がピッタリなくらい忙しくて、精神的にもいっぱいいっぱいだったのでみんなイライラしていました。もちろん私も。

亡くなったのが土曜日で葬式が月曜日になったので土曜日は自宅で仮通夜と言うことになりました。
身内だけで・・・の、はずだったのですが、祖母が亡くなったと聞いて、絶え間なくお客さんがやってきて、仮通夜のお参りも部屋いっぱいに人が集まりました。
お通夜の時も、会場に入りきらないほどの人が集まってくださって、元気だった頃は初稿的で、仕切りたがりやで賑やかなのが好きな祖母は喜んでいたんじゃないかと思います。

実は、お通夜の日に旦那の実家の法事が重なってしまい、申し訳ないと思いつつ、欠席させて頂きました。実家が近いので朝、お詫びとご挨拶にだけは窺わせてもらったのですが、お義母さんも優しく送り出して下さって、お通夜と葬式に旦那と一緒に来て下さいました。お忙しいはずなのに本当にありがとうございました。

お通夜の夜は叔母と母と3人で祖母の側で一晩過ごしました。
最近の葬儀場の遺族控え室はとても立派で、小さな流し場や冷蔵庫やポットや電子レンジ、テレビも綺麗なお風呂や洗面所まで完備されていて過ごしやすかったです。
お通夜の後も、祭壇のある部屋を片づけて机やお茶の支度をしてくださったのでそこで夜食をとったり、祖母の顔を見たりして過ごしました。
叔母や母は果物の籠の中身を覗いたり、祭壇や花を携帯で撮ったりしてもいました。
仮通夜やお通夜の時は常にお客さんがいたのでゆっくり祖母の側にいられなかったので良かったと思います。今日になって、少し落ち着いた叔母が「3人で祖母の側でゆっくり時間を過ごせてあれはあれで結構楽しかった」と言ってました。実は私もそう思っています。祖母も同じ事を思ってくれていたらいいなと思ってます。

でも、お葬式の当日はいろいろなことを思い出したり、考えたりしてずっと泣いていました。我慢しようと思ったんだけどどうしても涙が止まらなかったです。
最後に、棺にお花を入れてあげるとき、最後は何にも食べれなくなっていた祖母のために好きだったお菓子を一緒に入れたのですが、葬儀場の手違いで祖母の好きだった和菓子屋のお菓子だけ入れてあげることが出来なくて、それだけは悔いが残ります。
せめて、季節事のお菓子が出たら仏前にお供えしてあげようと思っています。

その後、斎場で私の数珠が切れるというハプニングがあり、かなり落ち込んでいましたが、その数珠は私が結婚するときに頂いた叔母のお下がりで結構使い込まれたものだったので切れても不思議はない状態だったようですし、あまり悪いように考えないことにしました。

すっかり痩せてしまっていた祖母の骨はとても綺麗で軽かったです。
お骨は私が持たせて貰ったのですが、小さくなってしまったなと寂しく思いました。

昨日は夜にお参りがあったのですが、朝から手伝いに行って、果物のかごの中身をお参りに来た人に分ける支度や掃除を手伝いました。後、細々としたパシリなど・・・。
午後、一度自宅に帰って夜勤に出る旦那と食事を済ませてまた戻りました。
この時、ここ何日かの疲れがどっと出ていたようで、精神的にもいっぱいいっぱいだったので、祖母の所に着くなり父にちょっときついことを言われて、本人に悪気はないというのもわかっているし、いつもはさらりと流すのに、その時だけはどうしても怒りが治まらなくて爆発しそうになりましたが、ここで私が怒るとみんなに迷惑が掛かると我慢しましたが、帰りの車の中で気が高ぶって一人で泣いていました。

母も私が怒っていたのに気が付いて父に言ってくれたようですし、一晩休んで少し落ち着いたのでまあ引きずらないことにしました。あの時はみんな疲れがピークでぴりぴりしていたのですから仕方がないです。

それに、ここ数日の間、無知なので難しいことはなにもわかりませんが、私なりに出来ることはしようと頑張って、ちゃんと役に立てたようで嬉しかったです。

これから寂しくなってしまいますが、ずっと祖母の介護をしていた叔母はもっと寂しいと思います。
叔母にはもう一人の母のようにお世話になっているので、これからも出来ることはしてあげたいし、仲よくやっていきたいなと思っています。

こんなところに書くのもなんですが、祖母が向こうで穏やかでいられますように。
ずっと頑張っていた叔母がこの先楽しく過ごしていけますように。
ここ数日、理解して助けてくれた旦那とお義母さん、ありがとうございます。

おばあちゃん、ありがとう。
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